「お前の話は長くて難しい」と言われ続けてきた
人生の中で、
「話が長い」
「難しい」
「回りくどい」
「頭が良さそうに見せたいだけなんじゃないか」
そんなふうに言われた回数は、もう数えきれない。
ただ、本人としては、別に難しくしたいわけではない。
むしろ逆で、「できるだけ誤解なく、正確に伝えたい」という気持ちで言葉を選んでいる。
その結果として、少し難しめの熟語や表現を使うことが多くなってしまう。
子供の頃、私は国語辞典を読むのが好きだった。
少し変わった子供だったと思う。
でも、その中で気がついたことがある。
言葉というのは、長い歴史の中で、人間の観念をできるだけ正確に伝えるために生まれてきたものなんじゃないか、ということだ。
例えば、「余計なことを付け足してしまった」という意味を表す時、「蛇足」という言葉がある。
もちろん、「そこ余計だよ」と言っても意味は通じる。
ただ、「蛇足」という言葉には、
“余計なものを加えた結果、本来の良さや正確性を損なってしまった”
というニュアンスまで含まれている。
だから私は、「蛇足」という単語を使った方が、より正確に伝わると思ってしまう。
けれど、その言葉を知らない人から見れば、
「わざわざ難しい言葉を使っている」
ようにも見える。
ここが本当に難しい。
世の中には、
「誰にでも分かりやすく話せる人が頭の良い人だ」
という考え方がある。
私はそれについて、少し懐疑的だ。
もちろん、わかりやすさは大事だと思う。
ただ、人間が膨大な知識や情報をベースに思考し、その結果として何かを伝えようとした時、本来はかなり圧縮された情報量を持つ言葉を使った方が、むしろ正確になることもある。
つまり、難しい言葉を使いたいのではなく、「一番誤差が少ない言葉」を選ぼうとしているだけなのだ。
しかし、平均的な語彙の範囲を超えた瞬間、それは「分かりにくい話」になってしまう。
その結果、
「長い」
「難しい」
「結局何が言いたいのかわからない」
と言われる。
こちらとしては、誠実に、できるだけ正確に、自分が考えた経路まで含めて伝えようとしている。
けれど受け手からすると、
「情報量が多すぎる」
「難解すぎる」
という印象になる。
時には、
「分かり合おうとする気がない」
という不誠実さとして受け止められることすらある。
だから私は、何度も謝ってきた。
「申し訳ありません。今後は、もっと常用平易な言葉で説明します」
と。
しかし、「常用平易」という言葉自体が既に分かりにくい。
もはや煽っているようにしか見えない時すらある。
この辺りには、言葉というものの難しさがある。
誰にでも分かる言葉へ置き換える時、どうしても情報の欠落が起きる。
だから本当は、自分の思考に最も近い言葉で話す方が自然だ。
ただ、人に伝える以上、相手の語彙や理解度、認知能力をある程度推測しながら話さなければならない。
けれど、それって実はかなり失礼な行為でもある。
「この人には、この程度まで砕かないと伝わらないだろう」
と、こちら側が勝手に判断するわけだから。
そう考え始めると、どこに“ちょうどいい落とし所”があるのか、わからなくなる。
言葉をたくさん知っていることで、逆にコミュニケーションが難しくなる。
これは、かなり皮肉なことだと思う。
だから私は、誰かと話す時、自分が喋るよりも「聞き手」に回ることの方が多い。
相手が話しやすいように相槌を打ったり、軽く感想を返したりしながら、相手に気持ちよく話してもらう。
そういう立ち回りをすることが増えた。
なぜなら、自分が思った通りに喋れば喋るほど、人を疲れさせたり、苦しめたりする可能性があることを、かなり早い段階で理解してしまったからだ。
たぶん小学校高学年くらいだったと思う。
そこから長い間、「思ったことを思った通りに喋れる場所」がなかなか見つからなかった。
大学に入って、ようやくそれができる環境に出会った。
あの時は、本当に「ここが天国だ」と思った。
ただ、よく考えれば当然で、大学というのは、そもそも興味関心や前提知識が近い人間が集まる場所だ。
法律や社会科学について話していても、ある程度共通理解がある。
だから会話が成立しやすい。
けれど、それは決して一般社会の日常会話ではない。
私は今でも、
「正確に伝えたい」
という気持ちと、
「分かりやすくしなければならない」
という気持ちの間で、ずっと悩んでいる。
ただ、20歳を過ぎた頃から、少し考え方が変わった。
本当に重要なのは、「話す力」より「聞く力」なんじゃないかと思うようになった。
自分は喋ろうと思えばいくらでも喋れる。
でも、人の話を聞いている方が、学べることはずっと多い。
だから今は、自分が主役として喋り続けるより、相手の話を聞きながら、時々短めに感想を返すくらいの距離感の方が、円滑なコミュニケーションになると思っている。
とはいえ、本音を言えば、私はもう少し濃密な言葉で話したい。
少し圧縮された言葉。
少し情報量の多い表現。
そういうものを使って、自分の観念を伝えたいという気持ちは、今でもある。
けれど、その観念を、相手に伝わる形へ変換しようとする作用。
それこそが、もしかすると「社会性」というものなのかもしれない。
人間は、一体どれくらい、自分の思った通りのことを、正確に他者へ伝えられているんでしょうね。
